「哲学不在の時代」を超えて(抜粋)

 二十一世紀といっても、「平和」が大前提です。平和なしには、一切が不毛です。ゆえに二十一世紀の宗教は、平和を生み出す宗教でなければならない。

 いずこであれ、「一人の人間」の蘇生から出発することが必要となる。それが「人間革命を通しての社会革命・地球革命」です。その法理が、法華経です。その行動が、法華経智慧と言いたい。

 法華経以外の哲学は、生命の法の「片端片端(かたはかたは)」すなわち部分観を説いたにすぎない。それらは「部分的真理」ではあっても、それを中心とすることは、生命全体を蘇生させることにはならない。かえって、歪みを生じてしまう。これに対し、法華経はそれらを統一し、きちんと位置づけ、生かしていく「根源の一法」を説いているのです。
 それが「法華経智慧」です。

 共産主義も資本主義も、人間を手段にしてきたが、人間が目的となり、人間が主人となり、人間が王者となる――根本の人間主義が「経の王」法華経にはある。
 こういう法華経の主張を、仮に「宇宙的人間主義」「宇宙的ヒューマニズム」と呼んではどうだろうか。

 大切なのは「智慧」である。智慧を体得することです。
 智慧と知識の関係は、今後も論じていくことになると思うが、あるイギリスの思想家は書いています。
 「知識がありながら智慧がないよりも、知識はなくとも智慧があるほうがよい。それはちょうど、鉱山をもちながら富がないよりも、鉱山はなくとも富があるほうがよいのと同じである」(チャールズ・C・コルトン『ラコン』)
 智慧も知識も両方あるのが理想ですが、根本は智慧である。目的は「幸福」であり、知識だけでは「幸福」はないからです。
 その意味で、二十一世紀を幸福にするには「智慧の世紀」とする以外にない。
 そして知識は伝達できても、智慧は伝達できない。自分が体得するしかないのです。実はそこに、法華経が「師弟」という全人格的関係を強調する一つの理由もあるのです。

 法華経をどう読んでいくのか――日蓮大聖人は「御義口伝」に仰せです。
 「廿八品の文文句句の義理わが身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、其の聞物(きくもの)は南無妙法蓮華経なり」(御書794ページ)と。法華経二十八品の一文一句が、ことごとく妙法の当体である自分自身のことを説いている。決して遠くのことを説いているのではない。
 その根本の立場から、法華経をどう読むべきかを、大聖人は「御義口伝」として残してくださっている。この「御義口伝」を、深く、厳格に拝しながら、二十一世紀へ「法華経を語る」壮大な挑戦の旅を、読者とともに始めたい。若き諸君の英知を借りながら。
 それは、どこまでも「自分自身が仏である」という真理への旅である。人生とは、自分自身への永遠なる旅なのです。