大乗非仏説論への考え方

 池田 釈迦牟尼の教えのうち、日常的な生活やこの人生を空しいものとし、この日常的人生から離れてしまうところに苦悩のない涅槃(ねはん)の境地が得られると説く教えと、菩薩として現実社会の中に飛び込み、人々の救済のために命を投げ出して取り組んでいくところに真実の涅槃が得られると説く教えとがあります。
 後者の教えは、中央アジアを経て、中国、日本へと伝えられ、前者の教えは、主として東南アジアの諸地域に広まりました。
 現実生活の中での実践を重んずる人々は、日常生活から離れて自身の涅槃を求める教えを、少しの人々しか救えない教えという意味で小乗教と呼び、自らを大乗教徒と称しました。
 ところで、近代に入って、西洋人が東洋に対して学究の眼を向けるにしたがって、仏教の歴史などについても研究が進められるようになりました。
 その結果出てきた学説の一つに、大乗は釈迦牟尼が説いたものではないという推論があります。
 私もまた、この大乗経典の一つである法華経を重要な拠りどころとした日蓮大聖人の教えを信奉している一人ですので、この学説を根拠にした批判に直面することが、しばしばあります。
 しかし、私は、それに対して、法華経釈迦牟尼の説いたものではないということは、明確な根拠のない、あくまでも推論にすぎないこと、また、かりに釈迦牟尼の説いたものでないという立場を想定したとしても、法華経自体のもつ内容の深さ、偉大さに変わりはなく、むしろ法華経釈迦牟尼以外の誰かによって説かれたとすれば、それを説いた人こそ偉大であると考えています。
 もちろん、こうした問題は、個人の主観の問題でありましょうが、客観的な立場から、大乗非仏説論について、どうお考えになりますか。

 ウィルソン (前略)誰が何を書いたかの確定に関心を注ぐのは、おそらく西洋独特の一種の強迫観念でありましょう。
 この学究的な関心は、キリスト教世界で醸成されたものです。キリスト教にあっては、教義上の正確性、厳格な系統的論述、そして相矛盾する要素の排除が、信仰にとって不可欠になっていたのです(キリスト教の神は、直接、弟子たちに語りかけたと信じられており、そのためイエスが話した言葉にさまざまな違いがあることが、大いに議論の的となりました。承認されていない「福音」も存在しており、協会が認めた福音書にも、後世の筆記者によって付け加えられた項目が含まれていることが、今日では一般に認められています)。
 仏教の場合は、人格に関するきわめて異なった概念があるため、また、真理に関する地域別の、個別的な概念が少ないため、筆者についての論争は、教説自体の受け入れやすさや、その一貫性、またその教説が人類救済のために提供するものに比べれば、重要性が少ないわけです。
 結局、宗教的真理についての重要な判定は、たぶん文献の分析という問題よりも、その真理が人びとに何をもたらすのか、という評価のほうに、置かれることになるでしょう。
 このことは、そうした文献の分析が、それを書いた人物が誰かということや、その文献の歴史上の信憑性に関するものであっても、またはその思想が文脈の中でもっている蓋然性に関するものであっても、変わりないでしょう。(後略)

(『社会と宗教』より抜粋)