生命がキーワードの時代へより抜粋

 一言でいえば、戸田先生の悟達は、創価学会こそ日蓮大聖人の仏法の継承者であることを明らかにした、記念すべき瞬間です。
 今日(こんにち)の広布進展の原点であり、仏教史上、画期的な出来事であったと、私は確信しています。難解な仏法を現代に蘇生させ、全民衆のものにしたのです。
 私も、若き日、戸田先生から直接、その内容を聞かせていただいた。学会の宗教的・哲学的核心が、ここにあると思った。
 それはそのまま、日蓮大聖人の仏法の極説に通ずる。
 戸田先生の悟達は、人類の行き詰まり打開への「道」を開いたと、私は信じている。この「道」を、あらゆる次元へ広げていくのが弟子の使命です。

 「生命」は、現に万人にそなわっている。だから万人が実感できる具体性がある。その意味でも、戸田先生の悟達は仏法を万人のものとしたのです。
 また「生命」には多様性がある。豊かさ、闊達(かったつ)さがある。それでいて、法則的であり、一定のリズムがある。この「多様性の調和」を教えたのが一念三千です。その一念三千を体得したのが仏だ。
 しかも「生命」には開放性がある。外界と交流し、物質やエネルギーや情報をたえず交換する開かれた存在である。それでいながら、自律性を保っているのが生命です。宇宙全体に開かれた開放性、そして調和ある自由、これが生命の特徴である。
 仏の広大無辺の境涯とは、生命のこの自由、開放、調和を、最大限に実現した境涯だとも言える。
 妙の三義には「開く」義、「円満」の義、「蘇生」の義がありますが、これこそ「生命」の特質です。そして「仏」の特質にほかならない。
 ある意味で、仏典はすべて生命論です。天台の仏法は「己心の中に行ずる所の法門を説く(説己心中 所行法門)(御書239ページ)とされ、大聖人は「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(御書563ページ)と仰せになった。
 ある時、戸田先生が、笑いながらおっしゃっていた言葉が忘れられない。
 「『説己心中 所行法門』を色読できるなり」――この天台の確信が、身で分かるのだと。
 その時、先生は言われた。
 「大ちゃん、人生は悩まねばならぬ。悩んではじめて、信心もわかる、偉大な人になるのだ」。病魔と闘う私に、何とか生命力をつけようとされていた。私が二十七歳の時です。
 感動して私は、日記にも書いた。けれども先生ご自身こそ衰弱が激しく、お体の具合が非常に悪い時だった。それでも先生は青年を、どう励ますか、どうしたら自分と同じ境涯にできるか、常に心を砕いておられた。

 ご自身の悟達後の境涯について、戸田先生は、ある人に、こうも語っておられた。
 「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人にあげてもあげても出てくるんだ。尽きることがない。君たちも、こういう境涯になれ。なりたかったら、法華経のため、広宣流布のため、ちょっぴり牢屋に入ってみろ」
 そして「今は時代が違うから牢屋に入らなくてもいいが、広布のために骨身を惜しまず戦うことだ」と。

 仏法の目的は、結局、境涯を変えるところにあるのです。
 また生命論といっても、学会が独自に始めたものではありません。日蓮大聖人の仏法自体が生命哲学です。これを継承したのが学会です。
 釈尊は、生老病死という人生の苦と対決して、自己の内奥(ないおう)の広大な世界を開いていった。
 天台もまた、法華経を根本として生命を内観し、そこに覚知したものを一念三千として説明した。
 華厳経では、心と仏と衆生は無差別であると説いているが、天台は、これを借りて、心と仏と衆生の三つの次元で法華経の妙法を論じた。「生命」は、これら三つを統一的に表現できる、現代的な言葉でもあります。
 そして日蓮大聖人は、生命の本源の当体を南無妙法蓮華経であると悟られた。それを全民衆が覚知し幸福への道を開いていくために御本尊をあらわされ、「御義口伝」をはじめ諸御書で生命哲学を説かれたのです。
 すなわち、生命論こそが仏法の本体であった。

 戸田先生の「生命論」は、ただ「論」のための「論」ではありません。科学的な分析と総合を繰り返して出来たのでもない。かといって、科学にも道理にも反しない。
 戸田先生ご自身の、真理に対する全人格的な格闘によって、法華経の奥底(おうてい)から汲み上げられたものです。これこそ「法華経智慧」と言える。
 ゆえに、この「生命論」には、知識を与えるだけでなく、発想の転換を促す力がある。
 そして希望へ、現実の行動へとつながっている。「生きる力」を湧きたたせる「事の哲学」です。
 この哲学を、そのまま実践に移すならば、そこから、無気力と苦悶の人生を、充実と喜びの人生へ転換しゆく、自己変革のドラマが始まる。
 そこから、人類が強くなり、豊かになり、賢明になるための、あらゆる次元の革命の歯車が回り始めます。

 「人間革命」とは、成仏の現代的表現です。総体革命とは「広宣流布」です。
 それらは、あたかも地球が「自転」しながら太陽の周りを「公転」する姿に似ている。自転によって昼と夜があり、公転によって四季がある。
 私たちは、太陽の仏法の光に包まれながら、昼もあれば夜もある――無限向上の人間革命史を綴っている――また冬もあれば春もある――広宣流布の春秋のロマンを奏(かな)で、進んでいるのです。
 ともあれ学会は、生命論に始まり、生命論に終わるといってよい。「仏とは生命なり」――戸田先生の悟達に、創価学会の原点があったのです。

 「仏」というと、人格的な面が表になる。それだけでは、どこか自分とかけ離れた存在というイメージが伴う。また「法」というと、法則とか現象とか、非人格的な面になる。それだけだと、あまり温かみはない。
 本来、「仏」も「法」も別々のものではない。「生命」といった場合には、その両面が含まれる。
 「生命は万人にある」「生命は尊い」。これは、だれ人も否定できません。「仏とは生命なり」との宣言は、何より、仏法の真髄は「自分自身」にこそあることを、はっきりさせたのではないだろうか。

 無限の「大宇宙」でもあり、同時に無数の生命体イコール「小宇宙」でもある、ひとつの実在。ダイナミックに変転し続けながら、しかも永遠常住である巨大な生命。この宇宙生命ともいうべき厳たる実在を「仏」ともいい、「妙法」ともいう。万人は、この尊貴なる実在の当体である。
 法華経は「諸法実相」と説く。「諸法」とは、すべての個々の生命事象である。その「実相」すなわち真実の相とは、宇宙生命そのものである。この不可思議の真理を、戸田先生は「仏とは生命なり」と表現されたのです。
 これが分かれば、絶対に「殺(さつ)」の心など起きるわけがない。何かを破壊することは、自分を破壊することになるからです。