「民衆に呼びかける経典」より抜粋

 法華経の真髄を説かれたのが大聖人です。法華経を学ぶことは、大聖人の仏法を学ぶことに通ずる。大聖人の仏法を学べば、法華経も分かっていく。表裏一体です。
 ゆえに法華経を語ることは、ただ釈迦仏法のみを探求することではない。大聖人の仏法の、はるかな未来を見つめての、壮大な挑戦なのです。
 仏法は深い。“言は意を尽くさず”と言うけれども、それでも語っていかねばならない。人々が大聖人の仏法を理解する機縁となり、広宣流布へ、人類の希望へとつながっていく論調にしたいのです。ある意味で一生の仕事だ。

 すべての民衆を救うために説かれた仏法です。女性と男性に差別はない。出家と在家の違い、人種、学歴、あるいは権力、経済力など、どんな社会的立場も関係ない。当然のことです。
 仏法は、だれのために説かれたか――むしろ差別され、虐(しいた)げられ、“最も苦しんだ”人をこそ、“最も幸福に”輝かせていく。それが仏法の力であり、法華経智慧ではないだろうか。

 「釈尊滅後の衆生のため」「末法衆生のため」。ここに「一切衆生のため」という法華経の慈愛がこめられている。
 法華経では「一切衆生の成仏」が仏の一大事因縁、すなわち、仏がこの世に出現した、最大で究極の目的であると説かれている。滅後の衆生、特に末法という濁世(じょくせ)の衆生を救わなければ、その理想は叶えられない。だから滅後の衆生のための教えを仏が説かないはずがない。そのための慈悲の経典が法華経です。
 大聖人は法華経を身読され、すべての民衆を幸福にする法華経の秘法を、南無妙法蓮華経として顕し弘められた。だから、末法の中でも「大聖人御自身のために」法華経は説かれたと仰せなのです。
 仏法が滅するとされる末法という時代に、一切衆生の幸福という法華経の理想を、どう実現するか――その道を開いたのは、日蓮大聖人であられる。
 この御自覚の上から、法華経は大聖人のために説かれたと仰せなのです。その意味で、法華経とは、大聖人が末法に御出現されることを「予言」した経典ということも可能になる。

  仏とは自らの生命の真実を悟った人である。それは、とりもなおさず、あらゆる人の生命の真実を悟ったことでもあった。それが仏の智慧であり、法華経智慧です。
 その意味で、法華経がだれのために説かれたとのかといえば、「すべての人間のため」であり、その「自立」のためです。そこには当然、僧俗、男女、貧富、貴賎、老若等、いかなる差別もありません。ひとえに「人間のため」「民衆のため」です。

 大聖人は「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候(そうら)へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」(御書1443ページ)と仰せになられている。
 だれもが等しく、成仏の可能性をもっている。だれもが必ず、絶対の幸福境涯を満喫していける――これが法華経の教えなのです。

 師の教えを「知っている」から偉いのではない。「何のために」知っているかです。
 「師の教えは素晴らしい」とは、だれでも言える。「だから、何としても人々に伝えていくのだ」――これが日興上人であられる。「だから、それを知っている自分はすごいのだ」――これが五老僧ではなかっただろうか。
 一見、同じように師匠を尊敬しているかに見えて、内実は“天地・水火”の違いです。ここを見誤ってはいけない。
 大乗仏教は、複雑な戒律で縛らない。人間の自由、自律を尊重します。しかし、ひとたび「民衆」という鏡に照らすとき、それは、極めて厳格なリーダーの規範となる。“いいかげん”は許されない。

 釈尊滅後まもなく、僧侶の堕落が始まっているという事実を、厳粛に受け止めねばならない。宗教は、リーダーが自己を見つめることを忘れると、自らが権威化し、民衆から遊離していく危険を常にもっている。

 創価学会においては“身分としての聖職者”は存在しない。教義の研鑽はもちろん、布教も儀式の執行も、社会に根差した在家者である会員が一切を担っている。民衆が担う宗教です。
 牧口初代会長は、「信者ではなく行者であれ」と叫ばれたが、その通りの行動をしています。
 一部の聖職者が権威を独占し、信徒はその権威に従属していくという伝統的教団の在り方では、二十一世紀を目前にした現代社会にはとうてい適応できないことは確かでしょう。

 社会で現実と格闘している人間にしか、社会で生きる人びとの心は分からない。宗教が、本気で民衆のなかへ開いていこうとすれば、一部の特権階級中心ではなく、民衆中心を志向するのは、必然の流れではないだろうか。

 二十一世紀の宗教は、民衆が自分で考え、自分で賢明に生き方を決める「自立」の智慧を与えるものでなければならないでしょう。

 “仏教以外の思想や哲学を縁として「正見」に入る人もある”と、大聖人は述べられている。たとえ法華経に出あっても、偏見をもって、法華経の真実の素晴らしさを分かろうとしない者は、これら仏教以外の賢人・聖人に劣るのであると(御書242ページ、「観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)」。
 また「法華を識(し)る者は世法を得可きか」(御書254ページ)と大聖人は仰せです。「法華経智慧」とは、社会をよくして、民衆を幸せにしていく智慧です。そうでなければ仏法の智慧とは言えない。開いて言えば、民衆を幸せにする智慧は、すべて「法華経智慧」であるとさえ言えるのではないだろうか。
 大聖人は、民衆を苦しめた悪王を討って世を治めた周の太公望前漢張良などについて、こう述べられています。
 「此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使(おんつかい)として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(御書1466ページ)
 仏教が中国に渡る以前であっても、これらの人々は仏法の智慧をもって民衆を幸せにしたのだと。
 「民衆中心」とは「人間中心」と同じです。それは「宗派性」も「僧俗の区別」も超えて輝くものです。
 赤裸々な一個の人間として、他者に対し、社会に対し、何ができるか――その意識や力を絶えず湧きあがらせていく源泉が、「民衆の宗教」であり「二十一世紀の宗教」であるはずだ。それが法華経の魂です。