「父なる神」と「父なる良医」

池田 ユダヤキリスト教が「人格神」を根本とすること、仏教が「法」を根本とすることについて、それぞれの聖典から挙げて、その意味をはっきりさせておきたいと思います。
 ユダヤ・キリス教では、人類の祖先であるアダムとイブは、神によって創られたとします。最初、アダムとイブは、エデンの楽園で、何一つ苦しみを知らないで生活していたのが、悪魔に誘惑され、神の戒めに背いて“知恵の実”を食べてしまい、神の怒りによって楽園を追放された、と教えています。
 悪魔とは、堕落した天使とされていますが、万物創造の神はいつ天使を創ったのか、なぜ天使が堕落したのか、また、食べてはいけない禁断の実をなぜ神は作っておいたのか、神が創った人間の心に、どうして神の戒めに背く心が仕組まれていたのか等々、キリスト教神学の門外漢の私にとっては疑問が尽きませんが、それらは、ここでは問題外としましょう。私がここで問題にしたいのは、アダムとイブが神の命に背いたために処罰として楽園を追放され、そこに人間の苦しみが始まったという点です。つまり、人間の苦の原因は、神の怒りなのです。知恵の実そのものは、なんら苦をもたらす毒ではありません。
 これと対照的に、仏教では、法華経に、良医とその子供たちの話があります。子供たちは、父の留守中に毒薬を知らずに飲んでしまい、そのために苦しみます。父親は帰宅して、その有様を見て、苦しみを癒す薬を調合し、子供たちに飲ませようとします。素直に飲んだ子は苦しみから救われますが、毒が強く、本心を失っている子は飲もうとしないため、父が知恵を用いる話が述べられています。
 この場合、苦しみの原因は、父の留守中に誤って飲んだのが毒薬であったことです。父が処罰するという人為的行動が因なのではなく、毒薬の作用という自然の法理によっています。
 ユダヤキリスト教の「父なる神」と、この仏教の「父なる良医」の行動も対照的です。「神」は怒って、子供たちを楽園から追放し、苦しみに突き落とします。それに対して「良医」は、子供たちを憐(あわ)れんで、薬を飲ませ、苦しみから救おうとするのです。
 もとより、この「神」が、ただ怒りのみの神ではなく、後に救世主を遣(つか)わすという慈悲も持ち合わせていること――それがイエス・キリストによって実現したのだとされていること――は、私も知っています。しかし、自分の意志に従わないものに、厳しい罰を科す神に対して、信ずる人々が、畏怖を抱いたことは、否定できないところでしょう。
 キリスト教神学においては、この「神」を再解釈して、「法」ないし「法のようなもの」の擬人的表現であるとしているのでしょうが、基本的には、意志・感情をもつ人格的存在とする考え方が一貫しています。
 これに対して、仏教では、仏陀を絶対者として崇拝する信仰もありますが、その場合も、仏陀は決して“創造主”ではありません。仏教は基本的には「法」が根本であって、仏陀は、この「法」を覚知し、人々に教え、あるいはこの「法」によって得た知恵を自在に働かせて、人々を救う存在です。
(「社会と宗教」より抜粋)