三証

池田 往々にして、宗教の神秘性は、人々に盲信・盲従を強いる口実とされます。これは、宗教が人間性の健全な維持・発展のために不可欠のものであるにもかかわらず、宗教への不信・敵意を引き起こし、特に現代社会において人々の宗教喪失を招いた原因の一つになっています。その意味で、宗教に神秘性は免れえないとはいえ、理性で捉えられ判断できる範囲では合理的であるのかどうか、そして、その宗教の説いていることが人間性の健全な維持・発展という目的に合致しているのかどうかが、確認される必要がありましょう。
 日蓮大聖人は、諸宗教を批判・選択するうえでの基準として、仏教であれば、その宗派の教義が釈迦牟尼(しゃかむに)の説法の記録とされる経典に正しい根拠をもっているかどうか、次に、その教義が理性で判断できる範囲において合理的であり、良識に合致しているかどうか、さらに、その説いている通りの結果が現実の事象として現れるかどうかという、文証・理証・現証の三つの視点を提示されています。
 これは、神秘性を隠れみのにして、不合理な教えを人々に押しつけ、人間性の衰退をもたらしかねない宗教の正体を明らかにし、人々を堕落や宗教不信から守るために、きわめて大事な教示であると私は考えています。
(『社会と宗教』より抜粋)