奇跡物語の意味

池田 宗教の教えの中には、随分と現実的知識からかけ離れた記述が多く、しばしば私たちを戸惑いに追い込みます。たとえば、釈尊の説いたとされる法華経の中にも、地球の半分ほどの大きさの宝の塔が、地中から出現して空中に浮かんだと説かれたり、大地が六種類に振動し、大衆が空中に留(とど)まったりしたことが説かれています。聖書の中にも、奇跡と呼ばれる、さまざまな現象があります。
(中略)
 たとえば、ただいま挙げた法華経における宝塔は、人間自身の生命の尊厳を表徴し、またそれが普遍的であることを教えようとしているもののようにも思われます。それらを虚構として無視するのでなく、その教えのもつ価値を正確に認識すれば、宗教の英知を人間としての現実の生き方に取り入れ、豊かにできることが多いのではないか、と思っていますが、こうした把握については、どのようにお考えになりますか。

ウィルソン (前略)奇跡的な出来事のより重要な側面は、それが信者にとってもつ意義にあります。奇跡が、それだけで宗教としての十分な証左と考えられたことは、ほとんどありません。奇跡的な出来事にのみ依存する信仰は、呪術であって、宗教ではありません。また、奇跡が、人々が信奉者になるための理由として考えられたこともありませんでした。偉大な宗教指導者たちは、たんに人々を信じさせるために奇跡を行うよう求められたとき、多くの場合、これを嫌ってきました。奇跡は、人々の信仰を補助するものであり、統一性のある哲学や教義によって初めて意味をもつものです。
(中略)
 宗教的脈絡と無関係になされる奇跡は、もちろん、たんなる一つの現象にすぎず、たぶんトリックでさえありましょう。しかし、奇跡は、それが信仰や行動への呼びかけという、一つの世界観の中に位置づけられるとき、信者の内面に作り出されるものの象徴となります。
 すなわち、奇跡は、宗教が抽(ひ)き出そうとしている意識の主観的な変化を、客観的に、明確に実感できる形で表現したものとなるのです。

池田 奇跡は、それが信仰・行動への呼びかけの中に位置づけられるとき、信者の内面に作り出されるものの象徴となる、との教授のお答えは、日蓮大聖人が釈迦牟尼の経典に述べられている奇跡あるいは奇跡的な事象についてなされた意義づけと、まさに軌を一にしています。
 たとえば、前述した法華経の宝塔について、経文には地球の半径に相当するほどの高さであること、それが空中に浮かんだことなどが説かれており、とうてい現実とは考えられないものであるわけですが、日蓮大聖人は、一人の信徒に与えた手紙の中でその意義を「法華経の説法を聞いた弟子たちが、自己の仏性を悟ったことを表しているのである」と教えられています。また、これは、さまざまな経典に説かれていることですが、地獄や仏の世界について、人々は地獄とは地の下にあるとか、仏の世界は西方はるか彼方にある等と信じているが、じつはわれわれの心(生命)の内にあるのであるとも教えられています。
 日蓮大聖人は、尊厳なもの、その逆に恐ろしく醜いものを、人間の外のはるかな彼方に求めて渇仰や畏怖を教えた伝統的な仏教に対し、それらは、じつは遠い彼方にあるのではなく、一人一人の人間の心の中にすべてが収まっていることを教えました。逆にいえば、人間の生命こそ、宇宙的な広がりをもった広大無辺の存在であり、善と悪の両極を包含した複雑微妙な存在であることを示されたのです。
 それはまた、ある意味では、「神が人間を創造した」と教えた伝統的キリスト教に対して「人間が神を作ったのである」と反論したヨーロッパの近代主義にも通ずる変革であったといえましょう。ただし、ヨーロッパ近代主義は、神中心の思考から人間中心の思考に転換したものの、人間を理性と欲望に還元し、宗教の重要性を否定してしまいました。これに対し、日蓮大聖人は、人間生命こそ、宇宙的広大さと無限の可能性を秘めた不可思議の存在であるとして、生命を尊極とする宗教を打ち立てられたのです。
 私は、信仰者にとっては、奇跡あるいは奇跡的なものが、人間の外側に想定されようが、それが科学的理性に反しようが、そのようなことは問題ではないということを理解しますが、しかし、それでは、現代人の大多数にとって受け入れられないと思います。
 それに対し、日蓮大聖人の教えは、そうした観点から宗教に対して拒否的な態度をとる人も、十分納得し、受け入れうるものであろうと考えています。

(『社会と宗教』より抜粋)