合理性と非合理性

 ウィルソン (前略)科学的論証および実験は、思考形態として、宗教と鋭い対照をなしています。科学的知識は常に懐疑や批判に晒(さら)されてますが、宗教においては、知識は信仰と帰依に依存しています。科学は仮説を提示し、その仮説は、有効と認められた種々の手順によって、繰り返し試されます。科学上の主張は、原則として常に反証が可能です。これは、宗教的真理に関する主張が反証不可能であるのと対照的です。科学的な思考態度は誤謬(ごびゅう)を認め、発達を期待します。それは、あらゆる知恵はすでに説き尽くされていると想定する傾向をもつ宗教とは、対照をなすものです。
 池田 宗教は“信”を出発点とするところから、その教義を信奉する人からの批判を受けず、信仰と帰依のうえに安住しがちです。そしてそれこそ、逆説的にいえば、宗教者の堕落を招いた原因の一つであったことは否定できません。まして、宗教の大部分は、その教えの中の科学的知識に関連する部分についても信従を要求し、その立場から、科学的知識に反する信条を人々に強制したこともありました。
 科学的知識と宗教的信条との確執は、かつてのような全社会的規模の問題としては、姿を消しました。それは、幾人かの科学者の犠牲と、人々の宗教心の喪失によって、宗教者が己の非力を覚り、自身の立場を狭(せば)め、限定するようになったからです。この結果、欧米でいえば、カトリック教会のように、全社会的規模を占める教派と科学的知識との確執は見られなくなりましたが、教典のすべてについて厳格な信仰を復活しようとする過激な少数派が現れると、局部的に激しい確執が生ずることが、しばしばあるようです。
 また、これは自然科学の知識との確執ではありませんが、たとえば、1978年、集団自殺で世界を震撼させた人民寺院などは、現代社会で確立している社会倫理に真っ向から反する倫理観が、一人の独裁的教主への信仰を基盤に形成された結果の破局といえましょう。
 このような悲劇を生ずる危険性は、広い意味での宗教には、いつの時代にもはらまれていると考えなければなりません。それ故にこそ、宗教の教義についても、批判の対象となりうるものについては批判・検討が加えられるべきであるとする考え方が、一般化することが望ましいと私は考えます。そのほうが、宗教にとっても好ましい結果をもたらすでしょうし、社会にとっても安全性を増すでしょう。
(『社会と宗教』より抜粋)

奇跡物語の意味

池田 宗教の教えの中には、随分と現実的知識からかけ離れた記述が多く、しばしば私たちを戸惑いに追い込みます。たとえば、釈尊の説いたとされる法華経の中にも、地球の半分ほどの大きさの宝の塔が、地中から出現して空中に浮かんだと説かれたり、大地が六種類に振動し、大衆が空中に留(とど)まったりしたことが説かれています。聖書の中にも、奇跡と呼ばれる、さまざまな現象があります。
(中略)
 たとえば、ただいま挙げた法華経における宝塔は、人間自身の生命の尊厳を表徴し、またそれが普遍的であることを教えようとしているもののようにも思われます。それらを虚構として無視するのでなく、その教えのもつ価値を正確に認識すれば、宗教の英知を人間としての現実の生き方に取り入れ、豊かにできることが多いのではないか、と思っていますが、こうした把握については、どのようにお考えになりますか。

ウィルソン (前略)奇跡的な出来事のより重要な側面は、それが信者にとってもつ意義にあります。奇跡が、それだけで宗教としての十分な証左と考えられたことは、ほとんどありません。奇跡的な出来事にのみ依存する信仰は、呪術であって、宗教ではありません。また、奇跡が、人々が信奉者になるための理由として考えられたこともありませんでした。偉大な宗教指導者たちは、たんに人々を信じさせるために奇跡を行うよう求められたとき、多くの場合、これを嫌ってきました。奇跡は、人々の信仰を補助するものであり、統一性のある哲学や教義によって初めて意味をもつものです。
(中略)
 宗教的脈絡と無関係になされる奇跡は、もちろん、たんなる一つの現象にすぎず、たぶんトリックでさえありましょう。しかし、奇跡は、それが信仰や行動への呼びかけという、一つの世界観の中に位置づけられるとき、信者の内面に作り出されるものの象徴となります。
 すなわち、奇跡は、宗教が抽(ひ)き出そうとしている意識の主観的な変化を、客観的に、明確に実感できる形で表現したものとなるのです。

池田 奇跡は、それが信仰・行動への呼びかけの中に位置づけられるとき、信者の内面に作り出されるものの象徴となる、との教授のお答えは、日蓮大聖人が釈迦牟尼の経典に述べられている奇跡あるいは奇跡的な事象についてなされた意義づけと、まさに軌を一にしています。
 たとえば、前述した法華経の宝塔について、経文には地球の半径に相当するほどの高さであること、それが空中に浮かんだことなどが説かれており、とうてい現実とは考えられないものであるわけですが、日蓮大聖人は、一人の信徒に与えた手紙の中でその意義を「法華経の説法を聞いた弟子たちが、自己の仏性を悟ったことを表しているのである」と教えられています。また、これは、さまざまな経典に説かれていることですが、地獄や仏の世界について、人々は地獄とは地の下にあるとか、仏の世界は西方はるか彼方にある等と信じているが、じつはわれわれの心(生命)の内にあるのであるとも教えられています。
 日蓮大聖人は、尊厳なもの、その逆に恐ろしく醜いものを、人間の外のはるかな彼方に求めて渇仰や畏怖を教えた伝統的な仏教に対し、それらは、じつは遠い彼方にあるのではなく、一人一人の人間の心の中にすべてが収まっていることを教えました。逆にいえば、人間の生命こそ、宇宙的な広がりをもった広大無辺の存在であり、善と悪の両極を包含した複雑微妙な存在であることを示されたのです。
 それはまた、ある意味では、「神が人間を創造した」と教えた伝統的キリスト教に対して「人間が神を作ったのである」と反論したヨーロッパの近代主義にも通ずる変革であったといえましょう。ただし、ヨーロッパ近代主義は、神中心の思考から人間中心の思考に転換したものの、人間を理性と欲望に還元し、宗教の重要性を否定してしまいました。これに対し、日蓮大聖人は、人間生命こそ、宇宙的広大さと無限の可能性を秘めた不可思議の存在であるとして、生命を尊極とする宗教を打ち立てられたのです。
 私は、信仰者にとっては、奇跡あるいは奇跡的なものが、人間の外側に想定されようが、それが科学的理性に反しようが、そのようなことは問題ではないということを理解しますが、しかし、それでは、現代人の大多数にとって受け入れられないと思います。
 それに対し、日蓮大聖人の教えは、そうした観点から宗教に対して拒否的な態度をとる人も、十分納得し、受け入れうるものであろうと考えています。

(『社会と宗教』より抜粋)

三証

池田 往々にして、宗教の神秘性は、人々に盲信・盲従を強いる口実とされます。これは、宗教が人間性の健全な維持・発展のために不可欠のものであるにもかかわらず、宗教への不信・敵意を引き起こし、特に現代社会において人々の宗教喪失を招いた原因の一つになっています。その意味で、宗教に神秘性は免れえないとはいえ、理性で捉えられ判断できる範囲では合理的であるのかどうか、そして、その宗教の説いていることが人間性の健全な維持・発展という目的に合致しているのかどうかが、確認される必要がありましょう。
 日蓮大聖人は、諸宗教を批判・選択するうえでの基準として、仏教であれば、その宗派の教義が釈迦牟尼(しゃかむに)の説法の記録とされる経典に正しい根拠をもっているかどうか、次に、その教義が理性で判断できる範囲において合理的であり、良識に合致しているかどうか、さらに、その説いている通りの結果が現実の事象として現れるかどうかという、文証・理証・現証の三つの視点を提示されています。
 これは、神秘性を隠れみのにして、不合理な教えを人々に押しつけ、人間性の衰退をもたらしかねない宗教の正体を明らかにし、人々を堕落や宗教不信から守るために、きわめて大事な教示であると私は考えています。
(『社会と宗教』より抜粋)

信仰の飛躍

ウィルソン 高度に発達した宗教は、すべて合理的な論述の体系を備えています。ちなみに、ここでいう高度に発達した宗教とは、その聖職者たちが、学究的な性向を身につけ、教義の解明と体系化への知的な構造を発達させ、自己批判の受容力を形成している宗教を指します。そうした合理的な論述の体系は、ときにはますます整頓された、合理的に行われる討論や探求の過程によって発展します。そうした過程で、教義の中心的な争点が矛盾を免れ、洗練され、整合されて、合理的な正当化への基礎的構造がもたらされるのです。
 しかし、このような傾向にもかかわらず、説明できない神秘的な要素は残ります。それを把握するためには、信者は“信仰の飛躍”を行い、精神を傾倒し、知性や経験の制約を棄て去り、中心的な原理・存在・遂行に自己を一体化させる、主観的精神を獲得することが求められます。そうした宗教的体系の核心にこそ、救済が見出されるとされるのです。
(『社会と宗教』より抜粋)